私は自分のYouTubeチャンネルとブログにて、結構な頻度で愛車を登場させている。
「ぼっち」レベルの高さ
しかし、このネット時代に、SNSや同じクルマに乗った人との交流を、一切行っていないのだ。
夜型の生活習慣や「道が空いている」という理由ゆえ、活動するのも基本的に深夜。
私の人生には、基本的に私自身と、乗り物しか存在していないのだ。
インスタグラムも、Twitterも、実はアカウント自体は持っているのだが、ここ数年は投稿していない。
強いて言うなら、動画のサムネイルに使う画像の色調編集のため、インスタグラムをたまに開いている程度だ。
ココ数年でコミュ障も実質的に克服し、基本的に誰とでも、話そうと思えば話せるようになったのだが、それでも独りにこだわり、頑なに他人との交流を断絶する理由について書いてみることにする。
別に「人と話せない」訳ではないという話
例えば私は、かつてRX-8を所有していた。
同じRX-8オーナーさんと、「プラグ被り大変ですよね」だとか「後期型のスターターモーターに変えるとだいぶ良くなりますよ」といった話で盛り上がるのは良い。
また、「ブレーキの効き方に違和感があるならブレーキパッドの初期制動を強いものに変えると改善する」だとか「この社外製カップホルダーを使うと一気に使い勝手が向上する」だとか、「このパーツは高い割に恩恵を受けづらい」といった、ノウハウ的な話も盛り上げられる。
伊達にクルマ好きとして生きていないからだ。
ここまでは良い。
大人同士であるがゆえの、無用な交流のリスク
ただ、「仕事は何をしているんだ」とかちょっとした世間話になっていくと、当たり前だが途端に合わなくなる。
私の現状は「ブロガーに転向したい、かつての栄光でダラダラ稼ぐユーチューバーもどき」でしかないからだ。
あの人間社会からドロップアウトせず、日々のストレスに負けずに立派に勤め上げている社会人さまとは、私はまるっきり違う生き物なのだ。
最近は2日に2時間くらいしか、ユーチューバーとしての動画制作に時間を割いていないのだが、私だってラクが出来ている訳では無いことは忘れないで欲しい。
しかし、人間には僻み妬みの感情が存在する。
私が若くして金銭的・時間的な自由を手に入れていることや、片方だけの充実した実生活。
ここらへんが、ふとした一言で透ける。こういうときに、人間の心が負の感情を産み出す恐れがある。
感情に乱されるのだ。
それがイヤなのだ。
成長・自己研鑽の邪魔になってしまう
私は趣味のドライブを、基本的に仕事に結びつけるようにしている。
ドライブついでに動画を撮って、会社の経費でガソリン代・高速代を計上し、最近はブログコンテンツの充実にも使っている。
まさに一石三鳥だ。
そして運転中も、オーディオブックで勉強を行ったり、瞑想や考え事による、自己モニタリングや人生の方針見直しを欠かさない。
家に引きこもって与沢翼のようにパソコンを叩いているだけでは、行き詰まってしまうのだ。
私にとって愛車での外出というのは、本当に重要な意味を持つ。
ここで、「今度一緒にドライブに行きませんか?」と誘われたと仮定する。
子供の頃なら嬉しかった。自転車であちこちでかけたり、学校終わりに毎日サッカーをしたり、ゲームをしたり。楽しく過ごせたのだが…
「ムラの激しい睡眠周期&集中力特性の中で、集合時間に合わせてピンポイントで家をでなければならない」だとか「変な気を遣ってしまい、異常に精神力をすり減らす」だとか「付き合いの都合で要らぬ出費がかさむ」だとか。
予定が一個入っただけで、前後数日の活動に致命的な影響が出るのだ。
ラクラク月収300万円を越えていたユーチューバー全盛期とは異なり、YouTubeの収益は明確に小さくなっているし、そもそも動画を作っていないし、今は合計3つのブログを育てることに忙しい。
以前だって、YouTuber活動以外にも、なにかしら忙しく動き回っている。
そんな中で、変な時間に寝起きして出かける羽目になり、形成されていた睡眠→活動のリズムが崩されたら、その影響は数日間に渡って続くだろう。
他人に合わせる余裕が無い
そんな中で、他人に合わせている余裕なんかこれっぽっちも無いのだ。
向上心を捨て去れば、会社員という立場は、仕事さえ終われば、やろうと思えば休日は休日が出来るものなのかもしれない。
だが、少なくとも私は、自分の人生に「休日がある」とは思っていない。
ちょくちょくサボっているのは一時的な休憩に過ぎない。
睡眠は「元の性能が著しく劣る脳をフル活動させるために、ぜったい必要な補給」と捉えている。
余裕がまったくないのだ。
特に最近は、株式投資を本格的に積み重ねることにしたため、1万円の出費も惜しい。
あまり明かしていないが、私は「自分の身体能力・脳機能は、まわりの人間に比べて著しく劣っている」と考えている。
だからこそ、的確な自己マネジメントで、集中力が立ち上がる間に行けるところまで突き進まないと、極度の無能に陥ってしまうのだ。
逆に聞きたいのだが、これだけ厳しい状況の中で、どこに他人と関わる余裕があるのだ…
ダラダラと生きている周りの人間の価値観&行動習慣に合わせていたら、いつまで経っても変わることはない。
別にこれが「悪いこと」だとは思わないが…
「孤独である」デメリットが無い
人間というのは何万年も前から、集団で暮らしてきた生物だ。
その遺伝子を継いで産まれているのだから、「仲間が居ないのは寂しい」だとか「そもそも人と関わらなきゃ生きていけない」という価値観が基本だろう。
だが、ヒトとしての基本機能が幾つも欠損している私と、インターネットのこの時代においては、そんなもの意味が無いと考えている。
中学生時代から、自分のペースを他人に邪魔されるのがイヤなのだ。
公立中学に放り込まれていた時代の、同級生の振る舞いを見ていても、向上心の見られない無価値な雑談か、教師への愚痴だけではないか。
挙句の果てには教師が「牛乳瓶を飲まない人が居るから名乗り出るまで帰さない」という凶行に出る。
こっちは受験勉強で忙しいのに。盛大に邪魔しやがって、今でも恨んでいることの1つだ。
(高校生以降は自分の責任で自分の人生を歩んでいるため、中学生以前の、与えられた環境に対する恨み言が占める割合が大きくなっている。)
そんなことをしていて、限られた人生 何になるのか
当時は仲の良かった友達が居たが、やはり思い返してみても、意味のある話をしなかった。
人と群れることに、私はデメリットしか感じないようだ。
しょうがないな。産まれた段階から、生物としておかしいのだから。
そこから伊達に生き抜いてきた訳では無いのだ。
まとめ
収集が付かなくなりそうなのでまとめてしまおう。
努力の邪魔になってしまうので、他人と関わりを持つことは辞めたほうが良い
という話であった。
まあこんな話しても、変わらない人は どうせ変わらないどころか「説教臭い」とか書いてくるので、他人を気にせず自分の人生を生きよう。
私の同年代はやっと会社員生活を始めたばかりだ。社会を回すため、これからも現状の愚痴をネットに書きながら、「カーボン鳥 嫌い」と大事な時間で検索しながら、ダラダラと頑張って欲しい。