
現行WRX S4が発売された時、筆者はずっとある違和感を抱えていた。
CVTのみという発表に対して、なぜスバルは「反響次第ではMT設定を検討しています」の一言を添えなかったのか。たったそれだけで、その後何年も燻り続けたネガティブイメージはかなり違うものになっていたはずだ。
その違和感の正体を、広報・企業戦略という切り口で少し掘り下げてみたい。
—MT不在が「致命傷」になった理由

WRX S4がCVT専用車として発売された瞬間、コアなファン層の間には「スバルはもうMTを捨てた」という空気が一気に広がった。
この手のイメージは、一度固定化すると厄介だ。実際の販売台数やユーザー満足度とは関係なく、SNSや専門メディア、YouTubeのレビュー動画などで何年も語られ続け、独り歩きしていく。
結果として、車そのものの完成度とは別に「MTがないから見送り」という層を生み、ブランド全体に薄く長く効くダメージとなった。
そして興味深いのは、2026年4月に登場した限定600台の「WRX STI Sport♯」だ。6速MT搭載のこのコンプリートカーは、ある意味で当初のファンの願いが遅れて実現した形といえる。
だが、これがもし発売当初から「反響次第で用意する可能性がある」と示唆されていたなら、発売直後のネガティブな空気はまったく違うものになっていたはずだ。
—「反響次第で」と言えなかった裏事情
では、なぜスバルはそのひと言を言えなかったのか。単なる広報の判断ミスと片付けるには、いくつか無視できない事情がある。
まず一つ目は、上場企業特有のIR上の制約だ。「新型を検討している」という発言は、投資家に向けたフォワードルッキングステートメント(将来情報)として扱われかねない。結局実現しなかった場合、有価証券報告書やIR資料との整合性を問われ、最悪コンプライアンス上の問題に発展するリスクがある。
二つ目は、サプライヤーとの契約関係だ。MT用のミッションケースや駆動系部品は外部委託されていることが多く、「出すかもしれない」と公言した瞬間、サプライヤー側から「型を残しておくべきか」という交渉材料にされる可能性がある。撤回した場合の関係悪化も、企業としては避けたいところだろう。
三つ目は、社内の意思決定プロセスだ。日本企業では「言った/言わない」よりも、「稟議を通さずに独断で発言した」ことのほうが重く扱われる傾向がある。仮に広報担当や経営層が現場感覚で「反響次第で」と口にしても、それが正式な決裁を経ていなければ、社内的には越権発言として処分の対象になりかねない。
つまり「広報がひと言足せばよかった」という話に見えて、実際にはIR・法務・サプライチェーン・社内決裁権限という複数の制度が絡み合っており、気軽に変えられるものではないのだ。
—それでも「におわせ」に投資する価値はあるのではないか
とはいえ、ネガティブイメージが定着した際の損失を考えると、企業はもっとこの手のブランドコントロールにコストを割くべきだ、というのが筆者の考えだ。
理由は二つある。
一つは、熱心なファン層ほど発信力が強いということ。MT不在への不満は何年にもわたって語られ続け、実売台数以上のブランドダメージを与えた可能性が高い。逆にコアファンを味方につければ、無料の広告塔として機能する。
もう一つは、実際にこれを実践している企業があるということだ。トヨタのGRシリーズは、開発責任者やチーフエンジニアがSNSやニュルブルクリンク24時間耐久といった場で、正式発表前から継続的に「におわせ」的な発信を行い、有言実行の実績を積み重ねることでファンの信頼を維持している。これは広報部単体の仕事ではなく、経営層・開発陣・IRが連携して作り上げた「ブランドのための制度設計」の成果だろう。
スバルに足りなかったのは、たったひと言のコメントではない。その一言を安全に発信できるようにするための、組織的な仕組みだったのだと思う。
もっとも、すべての企業がGRのような体制を組めるわけではない。規模の小さいメーカーほど「言わない」ことが合理的なリスク管理になってしまう、というジレンマも同時に存在する。
それでも、今回のWRX S4とSTI Sport♯の一連の流れを見る限り、最初から布石を匂わせておくコストは、決して高くなかったはずだ。